【追悼】若嶋津の名勝負4番と高田みづえの代表曲6曲|葬儀の日程と昭和を彩った夫婦の記憶

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土俵の記憶と歌の余韻

両国国技館の外観

2026年3月15日、元大関・若嶋津(本名:日高六男)さんが69歳で亡くなりました。「南海の黒ひょう」と称され、昭和の大相撲を彩ったその存在は、今も多くの相撲ファンの記憶に深く刻まれています。

日本相撲協会の発表によると、通夜は3月23日午後6時から、葬儀・告別式は3月24日午前10時から、千葉県市川市の昭和セレモニー シティホール市川で営まれます。喪主は妻で、元歌手の高田みづえさんです。

本記事では、若嶋津が土俵で見せた数々の名勝負とともに、昭和歌謡の一時代を築いた高田みづえの代表曲を振り返りながら、相撲と歌謡という二つの世界を生きた夫婦の軌跡をたどります。

若嶋津さんの訃報と葬儀の日程・場所について

2026年3月15日、元大関・若嶋津(本名:日高六男)さんが、肺炎のため69歳で亡くなりました。現役時代は「南海の黒ひょう」の愛称で親しまれ、昭和の土俵を彩った名大関の訃報は、相撲界だけでなく多くのファンに大きな衝撃を与えました。

日本相撲協会の発表によると、若嶋津さんの通夜および葬儀・告別式は、以下の日程で執り行われます。

  • 通夜:2026年3月23日(月) 午後6時〜
  • 葬儀・告別式:2026年3月24日(火) 午前10時〜
  • 会場:昭和セレモニー シティホール市川(千葉県市川市)
  • 喪主:妻・高田みづえさん

※都合により変更になる可能性があります

通夜・葬儀はいずれも春場所終了直後の開催となり、角界関係者をはじめ、多くの教え子や縁の深い関係者が最後のお別れに駆けつけるものと見られます。

若嶋津さんは2017年に倒れて以降、闘病とリハビリを続けながら静かな生活を送っていました。晩年は公の場に出る機会は多くありませんでしたが、妻・高田みづえさんや家族に支えられ、相撲界の行く末を見守っていたと伝えられています。

昭和の土俵に確かな足跡を残した名大関の死を悼み、今、あらためてその功績と生き様に注目が集まっています。

「南海の黒ひょう」若嶋津とはどんな力士だったのか

若嶋津は、昭和の大相撲においてひときわ異彩を放った力士だった。浅黒い肌に精悍な顔立ち、そして俊敏な動き。その姿から付けられた愛称が「南海の黒ひょう」である。

1957年、鹿児島県・種子島に生まれた若嶋津(本名:日高六男)は、1975年春場所で初土俵を踏んだ。当初は体重80キロにも満たない細身の体で、「割り箸」と揶揄されることもあったが、猛稽古によって下半身を徹底的に鍛え上げ、わずか数年で関取の座に駆け上がった。

最大の武器は、左四つからの安定した体勢と鋭い寄り、切れ味のある投げである。巨漢力士が幅を利かせる時代にあって、若嶋津は決して体格に頼らず、技とスピード、そして粘りで勝負した。その取り口は華があり、見る者に強い印象を残した。

1982年の九州場所後に大関へ昇進すると、若嶋津は一気に昭和相撲の主役へと躍り出る。1984年春場所では14勝1敗で初優勝、続く名古屋場所では15戦全勝という圧倒的な成績で2度目の賜杯を獲得。この年は年間最多勝も記録し、まさに全盛期と呼ぶにふさわしい強さを誇った。

一方で、若嶋津の相撲人生は「強さ」だけで語られるものではない。横綱昇進の期待がかかりながらも、あと一歩届かなかった事実は、彼のキャリアに常に付きまとった。千代の富士、北の湖ら歴史的横綱と真正面からぶつかり続け、勝ちも負けも含めて時代の記憶そのものとなった点こそ、若嶋津の評価を高めている理由だろう。

引退後は年寄・松ヶ根を襲名し、のちに由緒ある二所ノ関の名跡を継承。親方としては、厳しさの中に優しさを併せ持ち、多くの弟子や後進から深い信頼を寄せられた。土俵を離れても、若嶋津は最後まで「相撲の人」であり続けたのである。

派手すぎず、しかし確かな存在感。若嶋津は、昭和という時代が生んだ技量派大関の象徴であり、その相撲はいまも語り継がれている。

観客のいない土俵

若嶋津の名勝負5番|昭和の土俵を沸かせた激闘の記録

1984年春場所14日目|横綱・北の湖を堂々と寄り切り、初優勝を決めた一番

1984年春場所は、若嶋津にとって大関としての初賜杯に手が届いた勝負所。14日目、相手は当時の大横綱・北の湖。左四つからの寄りで押し切り、14勝目を挙げてそのまま14勝1敗で初優勝を決めた。

読売の回顧では、この取組を若嶋津が「一番うれしかった」と振り返ったエピソードが紹介されている。強靭な下半身と速い寄り——“南海の黒ひょう”の本領が、満員の大阪府立体育会館で鮮やかに咲いた瞬間だった。

1984年名古屋場所(総論)|15戦全勝——キャリアの頂点に到達した場所

春場所優勝からわずか4か月後、若嶋津は名古屋の土俵で15戦全勝をやってのける。技巧派大関がスピードと型の切り替えで相手を翻弄し、昭和相撲の激戦区を駆け抜けたこの場所は、キャリア最高の完成度として語り継がれる。

主要各紙の訃報・回顧でも、1984年春=14勝1敗、同年名古屋=全勝の二冠は必ず触れられる“到達点”だ。

1985年春場所|横綱・千代の富士との約1分半の死闘

翌1985年春、若嶋津は横綱・千代の富士と約1分半に及ぶ大熱戦を演じた。巻き替えの応酬→体勢の作り直し→寄り倒しという、昭和の大相撲を象徴する組み合いの妙。最終的に若嶋津が寄り倒しで制し、館内は総立ちとなったと伝えられる。

記録的な長さではないが、濃密な“間”と攻防が詰まった、動画・回顧特集でも繰り返し引かれる教科書的名勝負である。

1984年秋場所|綱取り目前で立ちはだかった“新潮流”

春=優勝、夏=全勝優勝と綱取りムードが熟した1984年秋(蔵前最後の本場所)。しかし、突如として土俵を席巻した小錦ら“新潮流”が若嶋津の前に立ちはだかり、連覇・綱取りの道は遠のいた。

読売はこの流れを「綱取り目前にして“大波”にのまれた」と総括。勝利の記憶だけでなく、“届かなかった悔しさ”までもが昭和の記憶として今日まで語られている。

小括:なぜ今も「名勝負」として語られるのか

若嶋津の取口は、巨大化する相撲に対して技・間合い・体勢作りで対抗する「技量派の回答」だった。

北の湖との力勝負、千代の富士との神経戦のような組み合い、そして綱取りの希望と挫折。勝っても、負けても、“時代の物語”になる相撲を取り続けたからこそ、いまも動画・年表・回顧記事で繰り返し掘り起こされるのだ。

妻・高田みづえとは|昭和を代表するアイドル歌手との結婚

若嶋津の人生を語るとき、妻であり伴走者でもあった高田みづえの存在は欠かせない。

高田みづえは1977年に「硝子坂」でデビューし、伸びやかな歌唱と確かな表現力で一躍トップアイドルの地位を確立。「私はピアノ」「そんなヒロシに騙されて」「潮騒のメロディー」など、昭和歌謡を代表するヒット曲を次々に残した実力派である。

ディスコグラフィの整理や受賞歴の記録でも、これらの楽曲は “代表曲” として必ず挙げられる定番だ。

二人は1985年に結婚。当時、現役大関と国民的アイドルの婚姻は大きな社会的話題となり、テレビ中継されるほど注目を集めた。結婚を機に高田は芸能活動の第一線から退き、以後は相撲部屋の女将として夫を支えつつ、家庭を守る道を選んだ——その転身の大きさは、昭和のメディア史にも記録されている。

晩年、若嶋津が療養の日々を送る中でも家族の支えは途切れなかった。訃報後の各紙報道では、通夜は3月23日18時、葬儀・告別式は3月24日10時、いずれも千葉県市川市の昭和セレモニー シティホール市川で執り行われ、喪主は妻のみづえさんと伝えられている。夫婦の歩みが最後の見送りまで並んで続いたことを物語る事実だ。

また、家族の時間もささやかにニュースになった。長女アイリの近況や出産の報がたびたび紙面を賑わせ、夫婦が育んだ生活の延長線上に新しい世代の物語が紡がれていることを感じさせる。芸能メディアのトピックでは、親子の話題とともに、みづえが裏方として家族と相撲界を支え続けた姿が折に触れて紹介されてきた。

土俵と歌謡。異なるフィールドのスター同士が結ばれ、互いの選んだ道を尊重し合いながら歩んだ夫婦の歴史は、昭和という時代の空気を今に伝える。若嶋津の勝負を見守り、節目には静かに寄り添う——高田みづえは、歌を置いたあとも家族と相撲界のそばに立つ表現者であり続けたのである。

高田みづえの代表曲6曲|今も色あせない昭和歌謡の名曲

高田みづえは、1970年代後半から1980年代前半にかけて活躍した昭和アイドルの中でも、歌唱力で評価された数少ない存在だった。可憐さだけに頼らず、情感を丁寧に乗せる歌声は、時代が変わってもなお聴き手の記憶に残り続けている。

ここでは、数ある楽曲の中から、今もなお代表曲として語り継がれる5曲を紹介する。

アナログのレコードプレーヤー

硝子坂(1977年)

高田みづえのデビュー曲にして、最大の出世作。叙情的なメロディと、少女の不安定な心情を描いた歌詞が重なり、一躍注目を集めた。

新人賞を総なめにした実績が示す通り、この一曲で高田みづえは「アイドル」という枠を超え、歌える新人として確かな存在感を示した。今も昭和歌謡を語る際、必ず名前が挙がる一曲である。

だけど…(1977年)

「硝子坂」に続く初期代表曲のひとつ。恋心の揺れを、過度な感情表現に頼らず、抑制された声で表現した点が印象的だ。

派手さはないが、繰り返し聴くほどに味わいが増す楽曲で、高田みづえの等身大の歌唱スタイルを象徴している。

パープル・シャドウ(1978年)

やや都会的で洗練された雰囲気を持つ一曲。それまでの素朴なイメージとは異なり、成長する女性像を感じさせる楽曲として評価が高い。

オリコンでも上位にランクインし、音楽番組でも頻繁に披露されたことから、当時の記憶と結びついているファンも多い。高田みづえの表現の幅を示した、重要な代表曲のひとつといえる。

潮騒のメロディー(1979年)

情景描写に優れた名バラード。海辺の風景が自然と浮かび上がる旋律と、高田の柔らかな中低音が美しく調和している。

昭和歌謡らしい叙情性が凝縮された一曲で、アイドル歌手でありながら、歌の世界観を成立させる力があったことを示す代表作だ。

私はピアノ(1980年)

高田みづえのキャリアを語る上で欠かせない一曲。桑田佳祐が作詞・作曲を手がけたこの楽曲は、のちにレコード大賞・金賞を受賞し、高田の歌手としての評価を決定づけた。

物静かで大人びた世界観を、無理なく表現できた点は特筆に値する。
「歌で物語を語れるアイドル」という、高田みづえの立ち位置が最も明確に表れた代表曲である。

そんなヒロシに騙されて(1983年)

再び桑田佳祐が提供したこの楽曲は、軽快さの中に皮肉と哀愁をはらんだ昭和ポップスの名曲。

結果的に、この曲は結婚と引退が間近に迫った時期の代表作となり、高田みづえの歌手人生を象徴する“最後の大ヒット”となった。

小まとめ|「歌で勝負したアイドル」の足跡

高田みづえの代表曲を振り返ると、共通して感じられるのは、声に無理がなく、言葉が自然に届くという点だ。流行に流されすぎず、等身大の感情を丁寧に歌い続けたからこそ、これらの楽曲は今も色あせない。

結婚を機に第一線から退いた後も、高田みづえの歌は昭和歌謡の中で静かに生き続けている。

相撲と歌謡──若嶋津・高田みづえ夫妻が残した昭和の記憶

昭和という時代は、土俵の熱狂と歌謡のメロディが、同じ居間のテレビの前で交差する時代だった。そこに象徴的に立っていたのが、「南海の黒ひょう」若嶋津と、実力派アイドル歌手・高田みづえである。

1984年、若嶋津は春場所の14勝1敗で初優勝、さらに名古屋場所では15戦全勝と、技とスピードで頂点を極めた(当時の主要紙・専門メディアも必ず触れる“到達点”)。

一方のみづえは、「硝子坂」での鮮烈なデビューから「私はピアノ」の大ヒットまで、アイドルの枠を超え“歌で勝負する”存在として評価を確立していた。

やがて1985年に二人は結婚。現役大関とトップアイドルという“国民的スター同士”の婚姻は社会現象となり、みづえは芸能活動の第一線を退いて相撲部屋の女将として夫を支える道を選んだ。

メディアはしばしば「昭和が紡いだ華やかな組み合わせ」として回顧し、その歩みを折に触れて紹介してきた(主要スポーツ紙の人物回顧・特集より)。土俵の気迫と歌の余韻──異なる場所で響いた二つの表現が、ひとつの家族の物語に結びつき、昭和という時代の記憶を豊かにしていった。

若嶋津の相撲は、左四つからの寄り・投げを基調に、巨漢化が進む土俵に技量で対抗する“昭和の回答”だった。1985年春の千代の富士戦に見られる約1分半の組み合いは、力比べだけではない“間合い”と“作り直し”の妙を体現した名勝負として今も語り継がれる。

同じ頃、みづえは「私はピアノ」(1980)で日本レコード大賞・金賞に輝き、のちに「そんなヒロシに騙されて」(1983)でも時代の気分を掬い取った。シングル年表でも確認できるように、「潮騒のメロディー」(1979/8/25)→「私はピアノ」(1980/7/25)→「そんなヒロシに騙されて」(1983)という流れは、「叙情から成熟へ」の軌跡を描いている。

2026年、若嶋津は69歳で逝去。通夜は3月23日18時、葬儀・告別式は24日10時、会場は千葉県市川市の昭和セレモニー シティホール市川、喪主は妻・高田みづえさんと公表された。

報道は簡潔に、しかし静かな敬意をもってこの事実を伝え、ファンは土俵の記憶と歌の記憶を重ね合わせて追悼した。昭和のテレビが映し出した二つの光景──勝負の一瞬に賭ける気迫と、歌が心に残す余韻──は、いま、夫婦の軌跡としてひとつに結ばれている。

思えば、彼らはそれぞれの舞台で「真っ直ぐであること」を貫いた。若嶋津は勝っても負けても土俵を正面から受け止める相撲で、みづえは言葉を丁寧に届ける歌で、時代と向き合った。

だからこそ、私たちはいまも一番の立ち合いと一曲のイントロを思い出せるのだ。昭和の居間に流れた歓声と拍手とメロディは、令和の今日も、静かに、確かに、記憶の奥で鳴り続けている。

土俵に響いた気迫と、心に残る歌声

若嶋津さんの一番と、高田みづえさんの一曲は、時を超えて私たちの記憶に生き続けます。謹んでご冥福をお祈りいたします。